ここから本文です。
2011年3月28日更新
魚津の歴史と文化 魚津の地名 魚津は、古来『魚堵(おど)』と称し、小戸ケ浦・小戸・小津とも言われてきたものが、魚の産地ということで魚津に改称され今日に至ったとされています。魚がよくとれたので、あちこちからだんだん人が移ってきて、しだいに家数も増えてきたと言い伝えられています。 魚津の名そのものはさほど古いものではなく、1476年とするもの、また1595年に小津を魚津に改称したと記す文献があります。 魚津の歴史 魚津市にある最も古い遺跡は、西布施の長引野台地にある縄文時代早期(約6,000〜7,000年前)の桜峠遺跡から始まります。この遺跡からは、富山県で初めて出土した縄文時代早期の「押型文土器」が出土しました。この土器は尖底形に復元され、富山県内でも貴重な資料となっています。 万葉の時代「大伴家持の歌碑」 天平18(746)年、大伴家持が、越中の国守として赴任したときに詠まれた「立山賦」の中に、魚津をテーマにした歌が長歌・短歌あわせて数首あります。 片貝川べの歌片貝の川の瀬清く行く水の絶ゆることなくあり通ひみむ(可多加非能 可波能瀬伎良久 由久美豆能 多由流許登奈久 安里我欲比見牟) 信濃浜の歌越の海の信濃の浜を行き暮らし長き春日も忘れて思へや(故之能宇美能 信濃 浜名也 乃波麻乎 由伎久良之 奈我伎波流比毛 和須礼弖於毛倍) 早月川の歌立山の雪し来らしも延槻の河の渡り瀬あぶみ浸かすも(多知夜麻乃 由吉之久良毛 波比都奇能 河波能和多理瀬 安夫美都加須毛) 中世戦乱の時代 松倉城 松倉城は、魚津市鹿熊字城山の山頂部(標高約430m)に築かれた山城で、越中最大規模の山城といわれています。築城の時期は南北朝期の14世紀前半頃と推定されています。その後、戦国末期の16世紀末までの約250年の長期にわたって、新川郡の要として戦乱の中で重要な役割を果たしてきたが、慶長年間(1596〜1615)の初めには廃城になったといわれています。 松倉城塁群 松倉城塁群とは、松倉城を中心として、半径2〜3km圏内に升方城や北山城などの支城や砦が配され、さらに半径7〜8km圏内になると魚津城や天神山城なども点在し、広域な城郭群を形成していました。 これらの城郭群は、山々が海に向かって張り出している魚津特有の地形を巧みに利用して築かれたものと考えられます。 江戸時代 江戸時代の魚津地域の行政は、当初魚津城代が新川郡を統轄していました。一国一城の令(1615年)により魚津城は廃城となり、寛永4(1627)年から魚津在住として魚津町と新川郡を治めることとなりました。その後、万治3(1660)年に、魚津町奉行と郡奉行が明確に区分され、魚津町奉行は明治2(1869)年の町奉行廃止まで、200年あまりにわたって魚津町を治めてきました。 明治時代 明治時代初期の廃藩置県後、短期間ではあったが新川県(今の富山県東部)が置かれ、その県庁が旧魚津町に置かれました。その後、新川県は石川県に吸収合併され、さらに石川県から分離し富山県となりました。富山県となったあとも、旧魚津町には新川郡役所が置かれ、新川地方の政治、産業の中心を担っていました。 大正時代 大正7(1918)年、全国をゆるがせた「米騒動」は、7月23日の旧魚津町(現・魚津市)で起こった米の輸送船への米の積み出し阻止が発端といわれています。おりからの米価高騰に苦しんでいた漁師の主婦ら数十人が米の積み出しをおこなっていた大町海岸の旧十二銀行の米倉で米の積み出しを止めるよう要求し、米の積み出しは中止されました。その後、百数十人程に膨れた主婦たちは、町内の米穀商店に押しかけ、米の移出阻止を求めました。これが時の内閣を総辞職に追い込んだ米騒動の始まりといわれています。 昭和時代 昭和27(1952)年4月、1町11か村が合併し、魚津市が誕生しました。 昭和27年4月1日、明治以来の念願であった魚津町、下中島村、上中島村、松倉村、上野方村、下野方村、片貝谷村、加積村、道下村、経田村、天神村、西布施村の1町11か村 合併が実現し、「魚津市」として新たな一歩を踏み出しました。その後、昭和27年の大水害、昭和31年の「魚津大火」などの災害を受けながらも、市街地の再開発や住環境の整備が促進されてきました。魚津市には富山県東部の行政、経済、教育文化の諸機能が集積されており、新川地域の中心としての役割をになっています。
魚津は、古来『魚堵(おど)』と称し、小戸ケ浦・小戸・小津とも言われてきたものが、魚の産地ということで魚津に改称され今日に至ったとされています。魚がよくとれたので、あちこちからだんだん人が移ってきて、しだいに家数も増えてきたと言い伝えられています。 魚津の名そのものはさほど古いものではなく、1476年とするもの、また1595年に小津を魚津に改称したと記す文献があります。
魚津市にある最も古い遺跡は、西布施の長引野台地にある縄文時代早期(約6,000〜7,000年前)の桜峠遺跡から始まります。この遺跡からは、富山県で初めて出土した縄文時代早期の「押型文土器」が出土しました。この土器は尖底形に復元され、富山県内でも貴重な資料となっています。
天平18(746)年、大伴家持が、越中の国守として赴任したときに詠まれた「立山賦」の中に、魚津をテーマにした歌が長歌・短歌あわせて数首あります。
片貝川べの歌片貝の川の瀬清く行く水の絶ゆることなくあり通ひみむ(可多加非能 可波能瀬伎良久 由久美豆能 多由流許登奈久 安里我欲比見牟)
信濃浜の歌越の海の信濃の浜を行き暮らし長き春日も忘れて思へや(故之能宇美能 信濃 浜名也 乃波麻乎 由伎久良之 奈我伎波流比毛 和須礼弖於毛倍)
早月川の歌立山の雪し来らしも延槻の河の渡り瀬あぶみ浸かすも(多知夜麻乃 由吉之久良毛 波比都奇能 河波能和多理瀬 安夫美都加須毛)
松倉城
松倉城は、魚津市鹿熊字城山の山頂部(標高約430m)に築かれた山城で、越中最大規模の山城といわれています。築城の時期は南北朝期の14世紀前半頃と推定されています。その後、戦国末期の16世紀末までの約250年の長期にわたって、新川郡の要として戦乱の中で重要な役割を果たしてきたが、慶長年間(1596〜1615)の初めには廃城になったといわれています。
松倉城塁群
松倉城塁群とは、松倉城を中心として、半径2〜3km圏内に升方城や北山城などの支城や砦が配され、さらに半径7〜8km圏内になると魚津城や天神山城なども点在し、広域な城郭群を形成していました。 これらの城郭群は、山々が海に向かって張り出している魚津特有の地形を巧みに利用して築かれたものと考えられます。
江戸時代の魚津地域の行政は、当初魚津城代が新川郡を統轄していました。一国一城の令(1615年)により魚津城は廃城となり、寛永4(1627)年から魚津在住として魚津町と新川郡を治めることとなりました。その後、万治3(1660)年に、魚津町奉行と郡奉行が明確に区分され、魚津町奉行は明治2(1869)年の町奉行廃止まで、200年あまりにわたって魚津町を治めてきました。
明治時代初期の廃藩置県後、短期間ではあったが新川県(今の富山県東部)が置かれ、その県庁が旧魚津町に置かれました。その後、新川県は石川県に吸収合併され、さらに石川県から分離し富山県となりました。富山県となったあとも、旧魚津町には新川郡役所が置かれ、新川地方の政治、産業の中心を担っていました。
大正7(1918)年、全国をゆるがせた「米騒動」は、7月23日の旧魚津町(現・魚津市)で起こった米の輸送船への米の積み出し阻止が発端といわれています。おりからの米価高騰に苦しんでいた漁師の主婦ら数十人が米の積み出しをおこなっていた大町海岸の旧十二銀行の米倉で米の積み出しを止めるよう要求し、米の積み出しは中止されました。その後、百数十人程に膨れた主婦たちは、町内の米穀商店に押しかけ、米の移出阻止を求めました。これが時の内閣を総辞職に追い込んだ米騒動の始まりといわれています。
昭和27(1952)年4月、1町11か村が合併し、魚津市が誕生しました。 昭和27年4月1日、明治以来の念願であった魚津町、下中島村、上中島村、松倉村、上野方村、下野方村、片貝谷村、加積村、道下村、経田村、天神村、西布施村の1町11か村 合併が実現し、「魚津市」として新たな一歩を踏み出しました。その後、昭和27年の大水害、昭和31年の「魚津大火」などの災害を受けながらも、市街地の再開発や住環境の整備が促進されてきました。魚津市には富山県東部の行政、経済、教育文化の諸機能が集積されており、新川地域の中心としての役割をになっています。
〒937-0066 魚津市北鬼江313-2 TEL:0765-23-1045 FAX:0765-23-1052
このページの作成担当にメールを送る