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2017年5月1日更新
魚津城の戦い 天正10(1582)年、越後の上杉方にとって重要な拠点であった魚津城は、越中制圧をもくろむ織田方の軍勢に包囲されました。80日間に及ぶ篭城戦で、壮絶な戦いが繰り広げられましたが、善戦むなしく落城となりました。 魚津城と上杉氏 魚津城は、15世紀ごろに松倉城の支城として椎名氏によって築城されたといわれています。永禄12(1569)年、上杉謙信が椎名氏を破ってからは、上杉氏が魚津城を支配するようになりました。 魚津城は越中・越後を結ぶ北陸道の押さえとなっており、また松倉城への主要ルートと考えられる角川河口にあり、陸海の交通の要衝となっていました。上杉氏にとって、魚津城や松倉城を含む魚津は、越中進出のための侵攻の拠点であり、また、敵の越後進入を防ぐ防衛の拠点でもあったようです。 魚津城の戦い(魚津城の戦いパンフレット) 天正10(1582)年 3月 織田方の連合軍(柴田勝家、前田利 家、佐々成政ら)が、上杉軍が立て こもる魚津城を包囲。 5月15日 魚津城救援のため、上杉景勝が援軍 を率いて天神 山に布陣。 5月26日 織田方の軍勢が信濃(長野)と上野 (群馬)方面から越後(新潟)へ進 攻。本拠地の春日山城へ戻るため、松倉城の軍勢とともに天神山城より越後へ撤退。 6月2日 「本能寺の変」が起こる。織田信長死去。 6月3日 織田方の連合軍が魚津城を落城させる。 6月4日以降 信長の死が知らされ、織田軍が撤退。上杉方が魚津城を奪還。 天正11(1583)年 佐々成政が魚津城、松倉城を攻略し、越中をほぼ平定。 魚津市内の主な山城 魚津城(魚津市本町一丁目) 旧魚津市街地の中心部に位置する平城で、築城年代は明らかではないが、室町時代には松倉城の重要な支城であった。 近世魚津城の様子は、天明5(1785)年の「越中魚津町惣絵図」に描かれています。これによると、本丸とそれを3方から囲んだ二の丸からなっています。 江戸時代には、本丸跡が加賀藩の米蔵や武器庫として使用されていました。明治期以降は、小学校の敷地となっています。 魚津城周辺の図(現在の地図に近世の魚津城を合成) 松倉城(魚津市字城山) 松倉城は、魚津市の南部、標高約430mに位置する山城です。築城は、14世紀前半頃と推定され、以後約250年の長きにわたって、幾多の武将がこの城をめぐって争いましたが、慶長年間(1596〜1615)の初めには廃城になったといわれています。 山頂付近の尾根上には、空堀によって区切られた5つの曲輪(郭)が、南北350mの長さで並んでおり、周辺には多数の平坦面や空堀などがみられる。広大な城域は富山県内でも最大規模を誇るものである。 天神山城(魚津市小川寺字天神山) 天神山城は、片貝川と布施川に挟まれた台地上にある標高約163mの独立丘陵に築かれた山城である。山頂部には本丸や二の丸があり、片貝川(西側)に面して土塁が設けられ、帯曲輪状の削平地が何段も設けられている。また、空堀や竪堀も数多く見られる。 天正10(1582)年の魚津城の戦いの折、越後の上杉景勝が後詰として陣を敷いた所としても有名である。本丸からは魚津城跡周辺を望むことができる。 松倉城塁群 松倉城塁群とは、松倉城を中心として、半径2〜3km圏内に升方城や北山城などの支城や砦が配され、さらに半径7〜8km圏内になると魚津城や天神山城なども点在し、広域な城郭群を形成していました。 これらの城郭群は、山々が海に向かって張り出している魚津特有の地形を巧みに利用して築かれたものと考えられます。
天正10(1582)年、越後の上杉方にとって重要な拠点であった魚津城は、越中制圧をもくろむ織田方の軍勢に包囲されました。80日間に及ぶ篭城戦で、壮絶な戦いが繰り広げられましたが、善戦むなしく落城となりました。
魚津城は、15世紀ごろに松倉城の支城として椎名氏によって築城されたといわれています。永禄12(1569)年、上杉謙信が椎名氏を破ってからは、上杉氏が魚津城を支配するようになりました。 魚津城は越中・越後を結ぶ北陸道の押さえとなっており、また松倉城への主要ルートと考えられる角川河口にあり、陸海の交通の要衝となっていました。上杉氏にとって、魚津城や松倉城を含む魚津は、越中進出のための侵攻の拠点であり、また、敵の越後進入を防ぐ防衛の拠点でもあったようです。
天正10(1582)年
3月 織田方の連合軍(柴田勝家、前田利 家、佐々成政ら)が、上杉軍が立て こもる魚津城を包囲。
5月15日 魚津城救援のため、上杉景勝が援軍 を率いて天神 山に布陣。
5月26日 織田方の軍勢が信濃(長野)と上野 (群馬)方面から越後(新潟)へ進 攻。本拠地の春日山城へ戻るため、松倉城の軍勢とともに天神山城より越後へ撤退。
6月2日 「本能寺の変」が起こる。織田信長死去。
6月3日 織田方の連合軍が魚津城を落城させる。
6月4日以降 信長の死が知らされ、織田軍が撤退。上杉方が魚津城を奪還。
天正11(1583)年 佐々成政が魚津城、松倉城を攻略し、越中をほぼ平定。
魚津城(魚津市本町一丁目)
旧魚津市街地の中心部に位置する平城で、築城年代は明らかではないが、室町時代には松倉城の重要な支城であった。 近世魚津城の様子は、天明5(1785)年の「越中魚津町惣絵図」に描かれています。これによると、本丸とそれを3方から囲んだ二の丸からなっています。 江戸時代には、本丸跡が加賀藩の米蔵や武器庫として使用されていました。明治期以降は、小学校の敷地となっています。
魚津城周辺の図(現在の地図に近世の魚津城を合成)
松倉城(魚津市字城山)
松倉城は、魚津市の南部、標高約430mに位置する山城です。築城は、14世紀前半頃と推定され、以後約250年の長きにわたって、幾多の武将がこの城をめぐって争いましたが、慶長年間(1596〜1615)の初めには廃城になったといわれています。 山頂付近の尾根上には、空堀によって区切られた5つの曲輪(郭)が、南北350mの長さで並んでおり、周辺には多数の平坦面や空堀などがみられる。広大な城域は富山県内でも最大規模を誇るものである。
天神山城(魚津市小川寺字天神山)
天神山城は、片貝川と布施川に挟まれた台地上にある標高約163mの独立丘陵に築かれた山城である。山頂部には本丸や二の丸があり、片貝川(西側)に面して土塁が設けられ、帯曲輪状の削平地が何段も設けられている。また、空堀や竪堀も数多く見られる。
天正10(1582)年の魚津城の戦いの折、越後の上杉景勝が後詰として陣を敷いた所としても有名である。本丸からは魚津城跡周辺を望むことができる。
松倉城塁群とは、松倉城を中心として、半径2〜3km圏内に升方城や北山城などの支城や砦が配され、さらに半径7〜8km圏内になると魚津城や天神山城なども点在し、広域な城郭群を形成していました。 これらの城郭群は、山々が海に向かって張り出している魚津特有の地形を巧みに利用して築かれたものと考えられます。
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