上杉軍対織田軍 魚津城の戦い
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 『天地人』に登場する「魚津城の戦い」ですが、魚津城や上杉氏などの関係もあわせて解説します。


魚津城と上杉氏
 魚津城は、15世紀ごろに、山城である松倉城の支城として、椎名氏によって築城されたといいます。永禄12年(1569年)に、上杉謙信が椎名氏を破って攻略し、上杉氏が支配するようになりました。
 魚津城は、角川と鴨川に挟まれた沼地にあったため、地の利にも恵まれていたようです。
 また、この付近には平野部が少なく、越中・越後を往来するためには必ず通らなければならない地でした。魚津は、上杉氏にとって、越中進出のための侵攻の拠点であり、また、敵軍の越後進入を防ぐ防衛の拠点でもあったようです。

魚津古城絵図
魚津古城絵図
(寛政10年魚津町絵図、前田育徳会蔵、天明5年魚津町絵図、魚津図書館蔵)



御館の乱と信長の侵攻
 天正6年(1578年)、上杉謙信が死去します。
 越後では、その養子である上杉景勝と上杉景虎が家督相続を争った「御館の乱」が起こります。「御館の乱」は、2年あまりの長きにわたって続き、景勝が勝利します。その間、上杉氏は、謙信の時代に築いた領土の一部を失うなど、勢力が衰えてしまいます。
 このような状況のなか、天下統一を目指す織田信長は、越中、信濃、上野方面から越後への侵攻をうかがい始めます。


魚津城の戦い
 天正10年(1582年)3月、小島職鎮が上杉方に呼応して一揆を起こし、織田方の将が守る富山城を奪いました。

勢力図

 これに対し織田信長は、即座に柴田勝家らに兵を出させ、富山城を取り戻しました。織田方は、その勢いをもって、上杉方の数倍の軍で魚津城に攻撃を開始しました。この攻撃に劣勢となった魚津城将たちは、同月23日に、景勝の側近である直江兼続宛てに、救援要請と落城間近で決死の覚悟であることを訴えたといいます。

勢力図

 その後、5月6日に、魚津城二の丸が落とされ、同月9日には弾薬が底を尽きます。景勝が援軍を率いて天神山城に布陣したのは、さらに後の15日です。

勢力図

 しかし、織田方は、土塁や柵、深い堀を築いており、上杉方の援軍の魚津城への救援は妨害されました。その間にも、織田方は、信濃・上野方面から上杉方の本拠地である越後春日山城へ侵攻の動きをみせたこともあり、景勝は26日に天神山城を撤退し、魚津城は孤立無援の状態となってしまいます。
 景勝の撤退後、魚津城内では兵糧も尽き、そこへ織田方は総攻撃を開始します。
 魚津城将たちは、敵に降ることを潔しとはせず、各人が耳に穴を開け、自身の姓名を記した木札を鉄線で通し、自害して果てたといいます。こうして、魚津城は6月3日に落城しました。

勢力図

 悲劇的な結末を迎えた魚津城の戦いですが、時を同じく、天下の情勢に大きな変動がありました。
 6月2日に「本能寺の変」が起こったのです。
 天下を目の前にしていた織田信長が、明智光秀の謀反にあい、自害を遂げていたのです。その報告が魚津城にもたらされたのは、落城後の6月5日以降といわれています。
 報告を聞き、織田方の各将は、自分の領地へ引き上げていったため、上杉軍は反撃に出て、魚津城を奪回しました。

勢力図

 この「魚津城の戦い」で特筆すべき点は、すべての将兵が最後まで戦い抜いたことです。
 籠城戦では、裏切りの発生によって内側から崩壊していくことが多いのですが、魚津城将は結束を固くし、また、上杉の誇りから、立派に戦い抜きました。
 「魚津城の戦い」における上杉方の奮戦は、織田軍内でも称えられたといいます。なかでも、この戦いで果てた上杉方の老将・吉江宗信は、その功績から、山形県米沢市にある上杉家の菩提寺・春日山林泉寺内に墓が建てられ、その側には、上杉景勝夫人や直江兼続夫妻ら上杉家の重要人物の墓が建てられているといいます。


「魚津城の戦い」と直江兼続
 天正9年(1581年)、景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が毛利秀広に殺害されるという事件が起きると、景勝の命で直江景綱の娘で直江信綱の妻であったお船の方の婿として結婚(お船の方にとっては再婚)し、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となる。以後、兼続と狩野秀治の2人の執政体制に入る。  直江兼続の名が戦国史に登場して間もなく、上杉家存亡の危機となる「魚津城の戦い」が起こりました。
 「魚津城の戦い」では、織田方に包囲されて危機的状況に陥った12人の魚津城将が、兼続宛に書状を送り、救援要請と現状を訴えています。
   この書状は「魚津在城衆十二名連署状」と呼ばれており、内容は次のとおりです。

 今月五日・十一日付の書状2通、昨夜戊の刻に松倉城に届き、謹んで拝見いたしました。当地(魚津城)のことは、先だってご報告申し上げましたとおり、壁際まで取詰められて、昼夜を問わず四十日間にわたり攻められていますが、今日にいたるまで持ちこたえることができました。(しかし、)こうなった上は、我々は滅亡と決まりました。このことを然るべく(景勝公へ)御披露くださいますようお頼みいたします。恐々謹言。


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