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魚津ゆかりの武将
上杉謙信(うえすぎけんしん)
享禄3年(1530年)〜天正6年(1578年)
その名も知れた越後の軍神です。天正元年(1573年)、能登平定のため、越中方面に出陣後、魚津城に入城しています。その城外で詠んだ歌として、「武士(もののふ)のよろいの袖をかたしきて 枕に近きはつかりの声」が残されています。
また、元禄11年(1698年)に、駒谷散人郁が著した『北越軍談』のなかで、上杉謙信が蜃気楼を見たという記述があります。軍記物ですが、蜃気楼の最古の記録といわれています。
佐々成政(さっさなりまさ)
天文5年(1536年)?〜 天正16年(1588年)
天正8年(1580年)に、上杉氏の西方の最前線であった越中平定に関わり、翌天正9年(1581年)2月、正式に越中の西部半国を領地としました。
天正10年(1582年)に本能寺の変が起こったとき、成政は、柴田勝家率いる北陸方面軍の一員として魚津城を攻略中でした。そして、魚津城を攻略した後に変報が届き、各将が自分の領地へ引き上げていったため、上杉軍に反撃にでられ、魚津城を奪回されました。成政はその防戦で身動きが取れなかったといわれています。しかし、翌天正11年(1583年)、成政は態勢を整え、魚津城を降伏開城させ、城代を置いています。
兵士の越後への帰還を認めるという条件で開城した魚津城の兵士を虐殺したり、敵に寝返った武将の人質を磔刑にするなど、軍事家としては苛烈な面をもっていましたが、水害を防ぐために堤防を築くなど、領民に慕われる内政家としての面をもちあわせていました。
傍流の子孫には、徳川光圀に仕えた佐々宗淳がおり、『水戸黄門』の助さんこと佐々木助三郎のモデルといわれています。
前田利家(まえだとしいえ)
天文7年(1539年)〜慶長4年(1599年)
天正10年(1582年)、柴田勝家・佐々成政らとともに、魚津城の攻略にあたっています。
文禄4年(1595年)、前田家が魚津を領有すると、魚津城に城代を置いています。
また、元禄13年(1700年)頃に著された『魚津古今記』のなかでは、子孫である加賀藩当主の前田綱紀が、魚津で蜃気楼を見て吉兆であることから「喜見城」と名づけたと伝えられていたり、同じく加賀藩当主の前田治脩は、寛政9年(1797年)4月に江戸から金沢への参勤交代帰城道中において、魚津で蜃気楼を発見し、その絵を描かせたと伝えられています。
吉江宗信(よしえむねのぶ)
永正2年(1505年)〜天正10年(1582年)
越後国西蒲原郡の国人。常陸入道宋ァ(ひたちにゅうどうそうぎん)と号しました。
越中国木舟城(高岡市福岡町)に詰めていましたが、織田方の柴田勝家の攻撃を受けて退去しています。
その後は魚津城に詰めるものの、長期籠城の末に落城。孫の中条景泰や他の魚津諸将らとともに自害したとされています。
山形県米沢市にある林泉寺には、直江兼続夫妻らの墓とともに吉江家代々の墓があります。
なお、今回の大河ドラマ『天地人』では、上杉謙信の側近として、第1回から登場し、謙信没後は、景勝を支えた重要な役どころとなっています。
4月20日の放映で、吉江宗信が安部政吉とともに、魚津城への出兵を願い出るシーンが流れ、5月3日『義の戦士たち』、5月10日『本能寺の変』と続きます。
上杉の義の精神を貫いた、十二将のドラマがえがかれているものと期待します。
また、魚津商工会議所では、この「魚津城の戦い」を縁として、米沢商工会議所と友好提携を結んでおり、今につながる“ゆかり”となっています。
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