上杉軍対織田軍 魚津城の戦い
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魚津の城


魚津城跡
市・史跡
魚津市本町一丁目(魚津市)

魚津城跡

魚津城跡

 旧魚津市街地の中心部に位置する平城で、築城年代は明らかではありませんが、室町時代には松倉城の重要な支城でした。城跡の様子は天明5年(1785年)の「越中魚津町惣絵図」に描かれており、これによると、本丸とそれを三方から囲む二の丸からなるが、二の丸はもとは四方を囲むものであったと推定されています。
 魚津城は北陸道の押さえとなる一方、松倉城への主要ルートと考えられる角川の河口に位置する海陸の交通の要衝でもありました。戦国末期になると、松倉城に代わって新川郡の中心地となり、ここをめぐって幾多の戦闘が繰り広げられました。天正10年(1582年)から天正11年(1583年)にかけ、織田勢が上杉方を制して以来、佐々成政、次いで前田利家の支配下となり、江戸時代初期には廃城となりました。しかし、枢要の地にあることから加賀藩は米蔵や武器庫を置いて万一に備え、周囲に郡代所や奉行所などを配したので、魚津町は近世城下町として新川郡の政治・軍事の中心として繁栄しました。
 明治初期ごろまで堀や土塁などが残されていましたが、のちに破壊されて当時を偲ぶものは何もありません。現在、その跡地には大町小学校が建っています。


天神山城跡
市・史跡
魚津市小川寺字天神山(光学坊)

天神山城跡

天神山城跡

 天神山は、片貝川と布施川に挟まれた台地上の独立丘陵で、その山頂(標高約163m)に築かれた山城です。山頂部には大きな削平地が2カ所見られ、片貝川に面して土塁が設けられており、下には帯郭状の削平地が何段も見られ、竪堀も数多く見られます。
 この城は松倉城塁群の一つで、築城は天文23年(1545年)、城主は長尾小四郎景直であったと伝えられますが、史料に登場するのは元亀3年(1572年)で、上杉方の重要な中継拠点であったことが知られています。また、天正10年(1582年)の魚津城の戦いの折、越後の上杉景勝が後詰として陣を敷いた所としても有名です。
 天神山は、元来、松尾山と呼ばれていましたが、室町将軍足利義材が都の乱を逃れて小川寺に身を寄せた折、その守護神の菅公像(天神様)を松尾山に祀ったことから「天神山」と名を改めたと伝えられています。


松倉城跡
県・史跡 昭和40年1月1日指定
魚津市字城山3の2(魚津市)

松倉城跡

松倉城跡

 松倉城は、魚津市の南部、鹿熊字城山(標高約430m)に位置する山城で、山頂付近の尾根続きの峰々には空堀によって区切られた5つの郭が、約350mの長さで南北に並び、その周辺部には多数の平坦地や空堀などが設けられていました。特に現在の鹿熊集落に面した北西側には多くの削平地が続いており、館跡と見られる平坦面や石積みの門遺構がみられます。広大な城域は越中最大規模を誇るものです。
 松倉城の三方は急斜面を呈した天然の要害であり、さらに周辺には水尾城など数箇所の支城で囲まれた城塁群を形成しています。また、この城の発展には松倉金山が関係しているともいわれます。
 築城は南北朝期の14世紀前半と推定され、幾多の武将がこの城をめぐって争い、戦国末期の16世紀末までの約250年の長期にわたって、新川郡の要として戦乱の中で重要な役割を果たしてきましたが、慶長年間(1596年〜1615年)の初めには廃城になったといわれています。


升方城跡
市・史跡
魚津市升方字城山(魚津市)

升方城跡

 早月川右岸、升方集落東方に位置する城山山頂(標高約240m)に築かれたものです。山頂部は、2カ所の出入口を設けた通称本丸(50m×20m)とそれを取り囲む帯郭状の通称二の丸(85m×55m)によって主要部分が形成されています。本丸・二の丸には、井戸跡や土塁、一部に石積みが見られ、城の北西部にある出入り口の下には複数の郭(曲輪)が設けられ、麓の升方集落へと続きます。本丸・二の丸の周囲は、幾つもの竪堀を巡らせた堅固な造りで、特に南西部分は20以上もの竪堀が集中する畝状空堀群が築かれ、この城の大きな特徴といえます。升方城跡のある丘陵上には、南升方城跡や水尾城跡、石の門など松倉城に関連した遺跡が並んでいます。
 城主は、江戸時代の文献には松倉城主椎名氏の家老の小幡九助(郎)や佐々成政の家臣佐々新左衛門、前田利家の家臣竹田宮内を置いたと伝えられています。


北山(金山谷)城跡
市・史跡
魚津市北山(個人)

北山(金山谷)城跡

 松倉城跡の北方約1500mにある独立丘陵(標高300m)上に位置するこの城は、L字状の形をなし、長さ約250m、幅約70mの範囲を有する松倉城の支城群中最大規模を誇る城郭です。
 山頂部は細長く平坦に削平されており、中央部が1段低くなっている。また西端にも1段高い削平地、南端には堀切が設けられ、山頂の平坦部の1段下には細長い帯郭が巡らされています。
 城主は判然とせず、松倉城主椎名氏の持城という以外詳細は不明である。また別に、金山城と称されるのは、城の西側に金山谷集落があることによると考えられ、文献史料にしばしば登場する「金山」がこの城を指すかどうかは判然としません。むしろ本城である松倉城を指す場合が多いと考えられています。なお、江戸時代の文献には、「北山城」、「金山谷城」、「金山城」の記載が確認できます。


坪野城跡 市・史跡
魚津市坪野(個人)

坪野城跡

 坪野城跡は旧坪野鉱泉裏山の山頂部(標高460m)に築かれており、位置的に松倉城を取り囲む支城群の一つと考えられます。当時、松倉から片貝谷に通じる山街道があり、この押さえとすることも築城の目的の一つであったと思われます。
 山頂部には約40m四方の平坦部が設けられ、その両側に1段低い削平地がみられます。山頂から三方へ伸びる尾根上に、それぞれ堀切が2〜3カ所設けられ、山頂への通路を遮断しています。
 坪野城は史料にはその名が登場しませんが、江戸時代の文献によれば、椎名氏又は上杉氏の家臣が在城したとも伝えられています。坪野城の周辺には、上杉謙信に関する伝説が多くみられます。例えば、謙信が松倉城を攻めたときの馬の蹄石、松倉城を遥かに望んで謙信が笠をぬいだという笠取山、馬揃えをしたという百間馬場、あるいは馬の訓練を行ったという馬の牧などがあります。


水尾城跡
市・史跡
魚津市升方字水尾山(個人)

水尾城跡

 魚津市の南西部、松倉城跡の西方約1kmの標高約300mの水尾山上にあります。早月川と角川に挟まれた丘陵の尾根上に、升方城跡・石の門・水尾南城跡と並んで位置し、松倉城の支城の一つとして位置づけられています。
 城は細長い尾根上にあり、南北約350m、東西180mの範囲に、6カ所の空堀で区切られた4つの郭を設けています。このうち北側の郭が約60m四方ともっとも大きく、北側に土塁と門跡が確認できます。また北から3番目の郭は約20m四方と小振りであるが南北に土塁と石積みを配し、守備はもっとも堅固です。近年、付近を林道が通るまでほとんど知られていなかっただけに保存状態が良好です。
 水尾城の名が歴史上にみえるのは、南北朝時代の貞和2年(1346年)、能登勢が水尾城及び水尾南城を攻めたとする得田文書の記録によります。


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